デジタルか、アナログか

ある時、親しい友人が訪ねて来てこう言いました。

 

「物事は”デジタル”で構築されているよね?」

 

「~だよね」「~ですよね」「~なんですね」というのは、相手から同意を引き出すための誘導的な言い方です。

よく営業マンや講演者や宗教の勧誘などが使う言い方で、こちらが何も考えていないと、つい「うんうん」と頷いてしまうもの。

 

もちろん、友人は営業マンではないし、ただ次に自論を展開しやすくするために無意識に使っただけでしょうが、私はこの言い方が嫌いなばかりか「物事は”デジタル”で構成」はされていないので、失礼を承知で即座にこう返答しました。

 

「否、そうではない」

 

いきなり否定されるとは思っていない友人は、少し慌てた様子で色々な譬えを提示してきます。

 

「でも、機械や生物はすべてパーツで構成されているし、アニメや映画も点の繋がりだし、コンピューターなんかも”1or0”で情報処理してるし……」

「確かに……今喋ってる言葉や文字もデジタルなものといえる」

「ほら、やっぱりそうでしょ?」

「だから、”そうではない”と言っている」

「???」

 

我々の思考というのは、まず物事を”分析”することから始めます。”分析”とは、文字通り「いったん要素を分けて考える」ということ。分けられた要素は、もちろん再び統合させなければなりません。

だから我々が何かを作る時には、家であれ、機械であれ、文章であれ、必要な”パーツを組み合わせ”て構築していくことになるし、我々はそのやり方しか出来ないのです。

 

しかし、それは我々が作るモノの場合。自然界は、我々人体を含めて決してパーツの組み合わせではありません。花も葉っぱも枝も幹も根っこも、全て一つの種から始まるのです。すなわち、森羅万象はすべて『アナログ』です。

 

分析するのは必要なことですが、それは再統合してこそ意味がある事を忘れてはいけません。

分断化された方から世界を見て「それが真実」というのは誠に愚かなことです。

 

文脈を理解せずに一箇所を抜き出して騒ぐ人たち、自分の専科以外の責任を負わない病院システムやそれが当たり前と思っている医者、たて割りの行政とそれが当たり前と思っている役人、宗教の争い、国家の争い、人種差別……それらはすべてデジタル思考に陥っていることの弊害だと気づくでしょうか?

 

我々東洋医学者は、今も昔も”全体の繋がり”を重視してきたのであり、人間も決してパーツの寄せ集めとは捉えません。(そうでなければ、東洋医学をうたうべきではありません)

 

未来の希望は、過去の叡知に気づくことなのかも知れませんね。